ヴァスルイ (Vaslui)
バフナリ (Bahnari)、ブロドク (Brodoc)、モアーラ・グレチロール (Moara Grecilor)、レディウ (Rediu)、ヴィーショアラ (Viişoara) の五村からなる.
考古学の一般調査から、新石器時代には人類が定住していたことが分かっている. 14世紀から地方都市として発展すると、人口も着実に増加した. 歴史上に初めて登場するのは1375年のことで、カリヨタスの息子ゲオルゲにまつわるポーランドの文献にみられる. イリアシュ公太子のモルダヴィア公即位に関する1435年の記録にも同様に出てくる. 市街は1439年とその翌年、モルダヴィア侵攻に向かうルーマニアのタタール人に放火された.
15世紀に入るとシュテファン大公からモルダヴィアの副首都にされ、人口も近くのヤシに迫った. このころ、ヴァスルイはその黄金期を迎える. 大公は1475年、この地でオスマン帝国の軍勢を打ち破った(ヴァスルイの戦い). モルダヴィアの首都は後にスチャヴァからヤシへと移されたが、ブルラド南部の町々が南モルダヴィアの行政の中心に据えられたため、ヴァスルイは単なる市場町に甘んじ、3世紀にわたり衰えていった.
市内にはかつて、大規模なユダヤ人共同体があった. 19世紀後半にガリツィアから到来した彼らは、地元経済の新しい活力源になった. 1899年には総人口の37%をユダヤ人が占め、ハシディズムの拠点も置かれた. しかしポグロム旋風やホロコースト、社会主義体制崩壊後のイスラエルへの移民などでその存在感は大幅に低下した.
第二次世界大戦中、キシナウのシュテファン大公像が市内に移設された.
1968年にヴァスルイ県の県都に制定されると、近隣から求職者が流入したため、人口は再び増加を見た.